| 友人の家を泊まり歩いていた10代後半。その頃のとりたてて何をするでもない昼夜逆転の弛緩しきった生活を、ときどき痛切に懐かしく思うことがある。ホカ弁にサ店、パチンコに麻雀、ちょっとカビくさい湿った布団、珈琲がこびり付いたマグカップ。そして一かけらの生産性も無い会話。暇だけは際限なく持ち合わせていたという、無為ではあるが今から思うと贅沢な日々だった。
そんな日常が続くと、さすがにたまには刺激が欲しくなるのか、パチンコで大勝した後とかに旅行の計画をみんなで立てたりする。手っ取り早く非日常気分を味わおうと、地方の温泉へ3日分くらいの着替えをリュックに詰め込んで4〜5人で出発する。しかしすることといえば、旅先の見慣れぬ駅前のパチンコ屋を散策し、旅館ではこれまた朝まで麻雀という、単に場所が変わっただけの全く意味の無い旅。阿呆の極み。
帰りの列車では脱力感が全身を包み込み、ようやく誰もがそんな自分に嫌気を感じて反省したりする。「明日からはもうちょっと真っ当に生きてみよう。」と、柄にもなく心に誓うのであったが、1週間もすればまた自堕落な生活に逆戻り、間延びした毎日に浸ることへの幸せを感じたりする。結局何も変わらない。「ジャージの二人」を読むと、そんな記憶がよみがえる。
失業中で小説家志望の主人公が、夏に働くのは馬鹿だというカメラマンの父と、群馬の山荘でだらだらと緩やかに夏の日々をすごす話。とりたててドラマチックな出来事は何ひとつ起こらないけれど、親子であるが友人に近いような、どうでもいい些細な会話のひとつひとつに、微妙にクスっと心が揺らされたりする。かつて自分が持ちえたものなのに、この先もう二度と手に入れることが出来ないであろうという軽い喪失感が、読み終えた後にジワリとやって来る。真の贅沢とは時間の流れに乗らないこと、かもしれない。 |