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何を撮っても自分のココロが

2008.01.26

夕方、電車に乗って席に座り携帯電話を開く。ふと顔を上げて向かい側の座席を見ると、座っている5人全員がズラリとみんな携帯をいじっている。そして僕の左右も含めこちら側5人も同じ。そんな光景も今では別にめずらしくも何とも無くなってしまった。しかし自分もその光景の一部を成しているのかと思うと、あまりいい気分がするものではない。現代の子供や若者は、普通の生活風景としてこんな大人たちを見て育つ。まったくロクなものじゃない。

しかしごく稀にだが携帯にまつわる光景であっても、あぁいいなと感じるときがある。先日混み合った地下鉄御堂筋線で吊革につかまり立っていると、目の前の座席に60歳くらいの老夫婦が、肩を寄せ合いながら夫が手にしている携帯を、不慣れな手つきで操作している。「あ、違った」「あなたコレじゃない?」「え〜そうかな〜?」などとずっとニコニコと微笑みながら、あ〜でもないこ〜でもないとやっている。なんて幸せそうなんだろう。ずっとこのふたりを見ていたいと思った。

実は最近写真をあまり撮らなくなったのは、きっとこういうことなのだ。街角のスナップよりも結局僕は人間そのものを撮りたいということに気づいた。日常の中の人々の営み。永遠の一瞬たりえる表情。ちょうど、いま目の前にいる老夫婦のような。しかしたぶん僕にはこういった人たちの一瞬を切り取る才能がない。いや、才能の前にまず「勇気」がない。どうやって声をかけてよいのかが分からない。

写真家は一体どうやって知らない人の写真を撮らせてもらているのだろう。もっと身近な人から撮ってみるべきだろうか。そう考えると荒木経惟は本当に凄いな、と思う。なぜアラーキーに撮られる人たちはみんないい表情、というかリアルな表情になるのか。カメラを構える以前に、人の心の中に入っていくことができるかどうかが、ある意味すべてなのかもしれない。最初に撮る側の人間が「どうなんだ」と試される。お前自身にそんな魅力があるのか?と。つまりは何を撮ろうが、そこには自分のココロが写っているということか。写真は難しい。

 

なんかもう、SONYのデジカメに替えてからサッパリですわ。と、カメラのせいにしたりして。

 
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